「手話は言語」先駆け 「口話重視」一変、母校に誇り
普及目指す手話言語条例の制定状況 66年・0→16年・3県29市町
開いた左の手のひらに右手の親指を当てると「名前」、右人さし指を立てて左右に振れば「何?」の意味。二つをつないだ「名前は何?」は、足立区花畑にあった旧都立足立ろう(現葛飾ろう)学校卒業生、加藤仁志さん(59)=同区竹の塚7=が6歳の時、初めて覚えた手話だった。
自宅2階の階段から落ちて頭を強打した3歳を境に、次第に聴力が衰えた。「全く聞こえない」ことを自覚したのは、家でテレビを見ていた時。セリフ回しも、両親が面白がる理由も分からない。母と各地の病院を訪ねたが、治療方法は不明。1962年、同校幼稚部に入った。
平仮名と口や喉の形が描かれたカードを見て、口の前に垂らした紙の揺れで息の出方を確かめながら、発声訓練を繰り返す子供たち−−。記録映画「東京1966年」に残る同校の光景は、加藤さん自身が体験した世界だ。戦前の33年、声に出して話す「口話強化」を唱えた鳩山一郎文部相(当時)の訓示以来、日本のろう学校では戦後になっても、手話は「劣った言語」とさげすまれていた。
「名前は何?」を教えてくれたのは教師ではなく、「当時小学部にいたお兄さん、お姉さんたち」。排斥されても、手話は彼らにとって「言語」だった。
66年当時は小学部4年。「私の担任は優しかったけど、授業中に手話を使った子の指をひもで縛り、『手話はみっともない』と言う先生もいた」と振り返る。口話だけの授業は教師の話が3割も理解できず、「分かったふりばかりしていた」。
中学部のころ、口話一辺倒の潮目が変わった。60年代末に口話や手話を含む、すべての手段を活用する「トータル・コミュニケーション」の概念が米国から伝わり、それと前後して、同校はいち早く手話の使用を容認。生徒がうれしそうに新米教師に手話を教える、そんな光景が当たり前になっていった。
別のろう学校高等部を経て77年、埼玉県内の機械加工会社へ就職した。前年の障害者雇用促進法改正で、障害者雇用が努力義務から法的義務になったばかり。加藤さんら15人の「ろうの社員第1号」に会社は当初、事あるごとに「聞こえない人には危ない。無理」と身構えた。「『できる』『やってみる』と訴えた。メモ用紙を持ち歩き、分からないことは筆談で聴いた」
実績で「できる」と証明し、時には同僚と居酒屋で酒を酌み交わして理想の女性像や趣味を明かし合った。ある日、上司に「正直、会社に手話通訳がほしい」と漏らした。
一昨年、15人ほどの社員を率いる指導員の肩書を最後に退職した。社内には4人の手話通訳社員が育っていた。
【毎日新聞HP】
毎日新聞2016年1月5日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20160105/ddl/k13/040/049000c
より引用
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